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「多数のわらじ」を履いている?私の、ちょっとだけ息抜きさせてもらえる場所だったり
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私の経験した事は、被災された方に比べたら・・・・

でも、忘れてはいけない。



正直、何度かこの記事を『非公開』設定にするくらい、書くべき記事か悩みました。
「此れくらいのことで大げさな」「もっと辛いしている人は一杯いる」という批判もあるだろうな、と。
ただ、被害の大小はあれど、「あの日」は確かに自分の心の何かを抉っていきました。
抉られすぎて暫くの間痛みどころか、何の感覚もなくなるくらいに。

自分の中のごちゃごちゃしていたものを纏めるため、記憶を整理するためにも書きなぐっています。
向き合う、なんて格好のいいものでもない。
寧ろ情けない姿を晒しているとさえ思います。
直接の被害を受けたわけじゃなくても、書けないこと、纏められないものは多々あって、やはり向き合えてはいない、そう思えます。
嗚呼、弱い奴だと・・・書きながら、正直思いました。自分自身を。


(こちらの記事は、「あの日」以降に見聞き遭遇したものについて書いています。)

・目を覚ましてから
食料が無いことに気づき、買い物をしつつとりあえず近所の状況を確認。
古い建物も多い地域だった。ヒビが入っているマンションも多い。
私のアパートは幸か不幸かヒビや震災による傷み等は無かった。
駅にも向かったが、とりあえず何本かは電車が走っていた。
自宅の電話から、友人に電話を掛けてみる。電話口に出た友人から途端に怒られる。
「行方不明者」になっていた私を心配していたからのことだった。
その後、他の「行方不明」な友人らとも連絡が取れてきたらしい。
・・・この時電話口で怒鳴った友人、実は妊娠中でつわりが酷い状況だった。その中でも必死に連絡網を駆使して手分けして関東以北の「行方不明者」を探していたのだと後から知った。
全国に散ってしまった学生時代の友人知人悪友・・・まだまだ繋がっているのだな、と感じた。

・混乱の中で
翌週月曜日は、電力逼迫と大停電の恐れが叫ばれて・・・電車が始発から全て運休した。
朝一の始発に乗ってでも出社しようと非常に早く目を覚ましたものの、これでは出社出来ない。
頭を抱えていたときに・・・1本の電話があった。
震災の3日後のあの日・・・甥っ子が、生まれた。

・殺伐とし始めた関東平野
電車が始発から運休という憂き目を見た翌日、電車は本数こそ少なかったものの動いていた。
ただ、電力逼迫はずっと叫ばれていたため、仕事が終わったら早々に帰るように指導されていた。
電車が止まるかもしれないというアナウンスに煽られ、右往左往。
すれ違うときにちょっとぶつかるだけでも・・・怒鳴りあう光景が結構見られた。今まではそんなこと無かったのに。

・買占め騒動
物流のために必要なガソリンが不足し、モノが少なくなったことは本当のこと。
そして買占めもあった。
米、パン、乾麺などの炭水化物は一気に消えた。トイレットペーパーや蝋燭、乾電池の類も消えた。
ここまでモノが無くなる光景は初めてだった。とはいえ、生鮮食品に関して言えば買占めにも限界があるので「無くなる」という事態は無かった気がする。関東は何だかんだいってもモノはあった。
でも、やっぱりここでもちょっとした殺伐光景はあった。
偶々入荷したスパゲティー1キログラム入りの袋を手にしただけで睨まれる、とか。
世間では「無駄な買占めは止めよう」と言ってはいたが、「必要な買い物はするな」とは言っていない。
あの時自宅には炭水化物が殆ど残っていなかった・・・そんな中で漸く見つけたスパゲティーが偶々1キロだっただけ。なのに何故睨まれなければならないのか。
(そのスパゲティーは物流が少しずつ改善されるまで拙宅の大事な食料となった)

・出社できない??
職場では、自宅が見事に被災した方が多く・・・出社出来ず「自宅待機」となった方が続出した。
というか、原則「自宅待機」で、出社する必要がある人間は例外的に出社してもいい、という状況。
幸運にも出社できる状況だった私は、自宅待機メンバーの方と電話やメールでのやり取りをしながら仕事をしていた。混乱の中でも状況は動いていた。

・地震酔い
けっこう苦しんだ。同じような症状を持っている方は沢山いた。
揺れていないのに、ふと「ぐらり」と揺れたような感覚があった。
本当に揺れているときは、皆で顔を見合わせて「・・・今のは本当に揺れたんですよね。」と確認しあった。
独り暮らしの家でも、ふと揺れているような気がして、周囲を見回して、何も揺れていないことを確認しないと不安だった。
お風呂が実は辛かった。入浴中に浴槽に張ったお湯がゆらりと揺れただけでも「揺れてる?」と錯覚した。
実際は自分がかき混ぜたために起きた水流だったのに、些細なことなのに。
自分が神経質すぎるのだ、もっとしっかりしなければ、と言い聞かせたけれど・・・。

・計画停電のこと
自宅付近は見事に計画停電の対象地域だった。実家も勿論。
時折「暗くてお味噌汁が飲めない」というぼやきメールが母から入ってきた。そんなときは実家が「夜間の計画停電タイム」に入っているとき。それでもアウトドア用ランタンがあるだけマシだと思う。
会社は都内で計画停電の対象外だったけれども、本社サーバが計画停電対象地域にあったため、その時間帯に合わせてシステムが使用できなくなるということが度々あった。
私自身は、一度だけ計画停電に遭遇した。昼間は都内にいたので・・・帰ってきてからの「夜間タイム」。
駅を出ると、信号も何も付いていない。あとはマンションの廊下等についている非常用電灯が点っているくらいで、真っ暗。
そのころの私のバッグには懐中電灯が常に入っており、照らしながらゆっくり歩いた。
自宅に帰ってから、以前弟たちから貰ったロウソク2個に火をつけ、FMラジオをつけた。
正直、ロウソク1個では暗い・・・独りしか居ないと、かなり精神的に来る。
最悪は10時くらいまで停電するとされたものの、8時前には停電が終了。
・・・私が経験したのはこの1回だけ。でもずっと地元にいる方は「昼間も普通に停電してたよ」と。
いきなり、ふっ・・・と明かりが消えるのだとか。

・「緊急指定」
震災後ちょっとしてから、会社前に観光バスが何台も止まるようになっていた。
そのフロントガラスには緊急車両のステッカーが貼られていた。
被災地支援のために派遣されるメンバーや支援物資を乗せるため。
が・・・関東近郊のメンバーを乗せていくのでは無い。乗っているのは関東以西のメンバー。
関東も被災しているので、その対応で手一杯だった・・・中部・関西方面から応援が駆けつけ、彼らを乗せて被災地へ向かうのだ。途中からは中国・四国・九州からの応援も加わった。
そんなメンバーの中には、従前より電話やメールでやり取りしていた方もいる。
「こんな形でお会いしたくは無かったですね・・・。」
「本当に・・・。」
これが、九州から応援に来た方と出発前に偶々遭えた時に、交わした言葉。

・東北道と磐越道
昨年のGW、東北道と磐越道経由で祖母の家(縁のある地方)に向かっていた。
栃木県内でも道路はダメージを受けていて、北上するにつれて酷くなっていくのが分かった。
応急処置程度しか補修できてないのがとてもよく分かる。
途中のPAもかなり酷い状況・・・これは以前のブログ記事にもUPした。
東北道には被災地支援のための車両が多く走っていた。東北・磐越・北陸道・・・と抜けて、支援に来ているのだろう。
印象的だったのは、福島県内で山口県警のパトカーを見かけたこと。
(会津地方では無いけれど、結構驚いた。)
他にも、鳥取県警や広島県警のパトカーを見つけたり、京都や愛知からの応援車両も見た。
磐梯山SAから見た、変わらぬ磐梯山がとても眩しく見えた。

・リストラと再就職
震災後、ジワジワと影響が出てきたのが勤め先の業績だった。
製造業とは違い、以前の勤め先は遅れて影響がでるようなインフラ系の職種。
設備投資部分をカットされ始めたのだ。
同じ部署のメンバーは半数に減らされ、私もリストラに遭い失職。
これ以上人員カットさせまいと、皆で頑張ったのだけれども、仕方ない・・・。
幸運にも、半月ほどで新たな職に就くことができた。給与は前よりも減っているけれども十分暮らせる。
職どころか住む家さえ失われた方を考えれば、住む場所もあって職もあって暮らせる基盤がある、それだけでもありがたいことだと思った。
先日、元の職場のメンバーと食事する機会があったが、人数は更に減らされ、相変わらず業務は大変だとのこと。
それでも何とかみんな頑張っていると・・・。
「水島さんがいなくなってから、本当にみんな落ち込んでたんだ。
課長なんて『申し訳ない』『合わせる顔がない』『元気にやってくれているだろうか』ってずっと言ってて。
部長も同じようなものでね・・・心配していたよ。」
今の職場の名刺を1枚だけ託す。私は今、それなりに頑張っているから心配しないで、と。

・年賀状
被災地の友人から、年賀状が届いた。
避難先の住所が分からなかったし、もう避難場所から戻ってきているのかさえ分からなかったので、年賀状を出せずにいた。
(もしもご家族にご不幸があったら・・・と考えると、尚のこと。)
おめでとうという言葉は使われていなかった・・・ただ、そこには「感謝」という文字。
生きていてくれただけでも、本当に・・・感謝するのは、こっちのほうだ。

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性別:
女性
職業:
多数?の草鞋履き(最近少し減らしました)
趣味:
読書、音楽弾き聴き、きもの、草いじり、料理、・・・あと、かきものとか。
自己紹介:
諸般の事情から「多数の草鞋」を履くことになってしまった私です。
息抜きとして、日々のことや趣味のことも書けたら良いなと思っています。

☆名前について☆
ここでは“さー”を使っていますが、“さー坊”というのも時折使っております。
(メール送信時は、名字まで付いてます。)
どれでもお好きなものでお呼び下さいませ♪
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